20200501

5月。新緑の季節、若葉色が眩い。

本当に言葉の通り自粛しているため例年の若葉を思い出し書いている。

 

昨晩、深夜0時過ぎ母が昔のアルバムを見ていた。私はここ3か月ほど諸々あり慢性的な憂鬱でちょっと参ってしまっていた。疾患の気があるなと思いつつ診断され断定されてしまうことの方が怖くそういった機関は訪ねていない。まあ実際大したことないだろうし。それならそれでもっと生きやすい術を得られればいいのだが…。自分が生まれた頃や幼少期の写真を「ほら、これ見てこれ!」なんて笑いながら見せられたほやほやの私はとても幸せそうでああそういえばこんな事があってすごく嬉しかったんだよなと沢山の鮮やかな記憶を一気に取り戻した。なんか泣けてしまった。母がなぜだか知らんが憂鬱そうな自分に対し何か特別な言葉を掛けることはせずとも言葉でないもので語り掛けてくれたのだと。…まあそれは私の行き過ぎた都合の良い思い込みで、実際はSNSで若い頃の写真を載せるバトンが回ってきたそうだw

人に何かを求める、特に精神的に求められるのは相手にとって非常に厄介な事だと思っている。私自身今まで誰かに依存されることが多かった。その度に文字通り絶縁になることを繰り返した。依存される側にも問題があると、大学からは爽やかなさっぱりした人付き合いを心掛けてきた。それが功を奏したのか大学四年間で絶縁になった友人はいない。半面、人に頼ることを必要以上に躊躇うようになった。怖くなってしまった。ある友人に「辛いときいつも一人だよね」と言われた。相手にも自分にも不干渉を貫くと正直とても寂しい。本当に一人なのではないかと思ってしまう。

写真を見るとかつて無条件に守られていた幸せそうな自分がいた。いまは目に見える形で人に気にされていなくとも、こうやって育てられてきたという事実にとても救われた。母にとっては全く意図した行為でなかったが、私には今本当に必要な出来事だった。

 

日が昇り今日は先日購入したオンライン先行上映「ホドロフスキーのサイコマジック」を観た。内容的に一人になれる時に観るべきだとタイミングを見計らっていた。昨晩の出来事もそうだが理屈ではない救い方、人間の無意識に語り掛け救い出す方法は、強い。社会から精神的に解放されるにはちょっとした視野の拡張、視点の切り替えが重要なのだろう。それがなかなか難しいのだが。

 

夕方テレビをつけると医療従事者への取材が放送されていた。夜は営業自粛に追いやられている人々の取材。たまたま見ただけだけれどこれもとても勇気づけられた。私もできること面倒臭がらずやっていかねば。まずは行動を起こしてから、悩むのはそれからでいい。